1.国道12号の開発(上川道路 = 旭川 〜 岩見沢間95km)
この道路の開発は、明治10年西南戦争の折の国事犯(終身囚)樺戸集治監に1,900名が収監され、農耕を主に作業していたが、明治19年2月初代北海道長官岩村通俊氏が高畑利宣氏に着工を命じたことに始まる。四国土佐出身の岩村長官の一大構想は、北海道の奥地に札幌とは別に「北都」を作る夢を持ち、空知太に10万都市構造を立てていた。樺戸集治監は、明治14年9月開庁~大正8年1月廃止まで39年間道内各地の開拓の基礎を作り本道発展に大きく貢献した。
2.空知太墓地用地の払い下げ出願(ここから三浦華園との園が紹介されます)
山形県人三浦米蔵氏が明治17年、三笠(市来知)に来て、空知集治監八田典獄と知り合い、上川道路工事による物資供給請負及び空知太渡船場の許可を得た。渡船場小屋は左岸(砂川側)にあって、渡船場と宿屋を営む三浦米蔵氏のもとに工事犠牲者や病死の旅人の遺体が次々と持ち込まれたので、三浦米蔵氏は墓地用地払い下げを道庁長官に出願し許可されたのが現在の空知太墓地である。当時は三浦墓地とも呼ばれた砂川・滝川の共同墓地であったのが、明治23年に共同墓地として正式に承認されたのである。
3.供養像と六地蔵の建立
三浦米蔵氏は人助けをした人でもあった。囚人は暑熱の中の苦役にばたばたと倒れる者が出て、1間毎に一人の人柱が埋められたとのことである。当時の政府要人、監督者の道路開削の大使命の重要性は分かるが、人権無視・人命軽視、その冷徹吸血鬼のような囚人酷使の歴史は涙なくしては繙けないのである。
三浦米蔵氏は、囚人の屍がところ定めず埋められている惨状を見るに忍びず墓地設定を思い立ったのであった。そして、供養像と六地蔵を墓地入口に建て人柱に感謝と死を悼む至情からであった。
地蔵供養像の背面には、「明治23年12月建立 世話人 三浦米蔵」と刻まれてある。
六地蔵とは、死んだ後に辿る六つの道に立って苦しみを救ってくれる仏様のことで、地獄道、餓鬼道、畜生道、阿修羅道、人間道、天道である。
毎年7月24日の地蔵際には、赤布の帽子と袈裟を滝川市栄町にあるワカバ舎社長の若木静氏が昭和18年から寄進されている。
なお、明治31年の空知川の氾濫により三浦屋が流出し、遺影など無く、どんな方か全く分からないとのことである。
4.無縁物故者供養塔の建立経緯
現在の供養塔は、元火葬場のあった場所に昭和57年8月奇特者の寄付を含めて滝川市が「無縁物故者の霊」の碑を建立したものであり、更にその以前の昭和17年10月14日故若木富太郎氏が建立した供養碑「無縁霊発菩提供養塔也矣」がその横に置いてある。昭和59年から滝川市老人クラブ連合会の単位クラブが当番で無縁物故者追悼法要を営んでおりましたが、江部乙、滝の川、空知太各墓地の法要がまちまちに行なわれていたので実施方法を統一して行なうこととなり、それぞれ実行委員会を組織して、平成18年度から空知太墓地無縁物故者法要は東支部、西支部、南支部が実行委員会を組織して執り行っています。
(盟友会会長 船津博顕 記)